ひとり介護 5年間の記録

2019年に母が他界。以後2020年からは5年間の介護の日々を振り返ります。介護と向き合う方に少しでもヒントとなり、エールになりますように。

5年間の介護記録〜緩やかに進行していく

2020年3月

 

仕事では期末業務に入る一方で

また 4月に他界した父の一周忌が迫り、

とにかく目まぐるしい忙しさの中で

日々を送っていました。

 

毎週の休みには、必ず泊まりがけで

実家に行き 母に代わり愛犬の世話をし、

父の一周忌の準備を進めつつ

進捗状況を母に報告。

そして、ある程度の片付けを済ませてから

自分の住まいに帰宅する。

 

実家を出るのが 夜10時をまわることも

しばしばでした。

 

私が父の部屋や納戸を片付けていると

決まって母が階下からやって来て、

勝手に人のモノ捨てないでよ!

 

「アンタは捨て魔の鬼だから、

油断すると みんな捨てられちゃう。」

 

母にとっては

私の方が鬼らしい。

 

そして迎えた父の一周忌。

 

親類と

父の晩年に親交があった方々だけの

こじんまりとした法事でも、

葬儀社、お寺さん、招待状、御礼品準備から

ずっと続いた対応にクタクタ。

 

その日は

母と上京した兄と共に実家へ帰り、

夕食を済ませた後も

遅くまで語り合う。

 

兄の来訪は

やはり とても嬉しいようで、

終始笑顔の母。

 

暫く兄にはこちらに留まって貰いたい

と思ったが、そうもいかない。

翌朝には兄は帰り、

母と二人になると気まずい空気。

 

そう、私としては

兄から 言われました事が

引っかかっていたのです。

 

「お母さん、電話して来たぞ。

お前が怒ってこわいってさ。」

 

諦めにも似た虚脱感に襲われ、思う。

 

もう、このすれ違いは

修復できないのだろうか。

 

 

5年間の介護記録〜感情の起伏

2013年11月

 

とにかく愛犬の事が気に掛かり、

母といさかいになろうと

毎週、休みに必ず実家に泊まりがけで

帰るようにしていた。

 

一時的な感情の高ぶりだったのか

その後、愛犬に対しての乱暴な言動は

無くなったかに思えました。

 

ただ 母は私が実家に行こうが

全くお構い無し。

 

家が片付くはずも無く、

11月に入ると喪中欠礼挨拶状と

年が明ければ あっという間にやって来る

父の一周忌の準備をしなければならず、

暫くの間  実家の始末の事は

頭から遠ざかって行きました。

 

母も落ち着いた様子で

親類や父の関係先、

また母自身の交友関係へと

喪中挨拶の準備を進めているようでした。

 

それを見て 私もホッとして

仕事、実家への顔出しの傍ら、

自分自身の喪中葉書や

年末への準備を進めて行く。

 

一方で、

一周忌の準備も始めなければと思い

母へ相談を持ちかけてみると、

 

「私には よく分からないから

あなたの方でお兄ちゃんと決めて

進めてちょうだい。

費用は出すから」

と言う母。

 

新居マンションの一件もあったので

そう言われても 全て、

いちいち母に相談と報告をする事にした。

 

そんなある日、事件は起こる。

 

泊まりがけで実家に行った翌朝、

起きて階下に下りて行くと

母がスカートの裾を握りしめて

廊下に立ち尽くしている。

 

「おはよう、

何、どうかした?」

と聞くと、

 

「どうしよう・・・

私、おかしくなっちゃったみたい」

と言う母の足元を見ると、

水浸しになっている。

 

いや、

それは水 ではない

失禁した母の姿だったのだ。

 

5年間の介護記録〜母の異変2

2013年9月

 

母と暮らす新しいマンション購入の為には、

現在の私の住むマンションのローンを

完済し抵当権を抹消すること。

実家の売却を進め、新しいマンション購入ローンの繰上げ返済をすること。

 

こ2つが銀行から提示された条件でした。

 

今私が住むマンションを手放さない訳は、

亡き父との想い出が詰まった部屋だから、

そして勿論、母や愛犬との想い出も。

 

独身である私自身の老後の為の貯蓄全額と

父の遺産に当たる保険金の全てを

今住むマンションのローン完済に当て、

新たに購入するマンションのローンを組む。

 

繰上げ返済をしなかった場合、

完済時の私の年齢は80歳!

頭金として全ての貯蓄を使い果たしての

この計画は何とも無謀と言えるかもしれません。

 

それでも、現状では立ち止まる事もまた難しく、

こうしてマンション購入が決定したのです。

 

母は相変わらず、

自分は承知していない事と 知らん顔を決め込み、実家は益々散らかって行きます。

 

父が丹精を込めていた庭も雑草が生茂り始め、

心配したお隣りさんが 地域ボランティアの

庭清掃を紹介してくれました。

 

世間体もあって、庭の清掃については

母も了承してくれましたが、

家の中は全く片付けようとはしません。

 

母と私は言い争いばかり。

母の攻撃的な言葉は愛犬にも向けられ、

もう面倒見れないから

アンタが連れて行って頂戴!

それが無理なら捨てて来て!

 

以前の母には有り得ない、

全身が凍り付く言葉でした。

 

父と母と、愛犬。

私が休みの日欠かさず実家に顔を出したのは、

この大切な家族に会うためだった。

 

皆で愛犬も連れて 買物に出掛けると、

「あーっ、わんわん!」

と子供達に囲まれて

いちばん嬉しそうだったのは母である。

「可愛いでしょ?」と

母らしい屈託のなさで子供達に話しかける、

そんな母だったのに。

 

母は鬼になってしまったのだった。

 

 

 

5年間の介護記録〜新居探し

2013年6月

 

父の四十九日後、墓所が決まり

納骨も済ませたところで、

母と一緒に暮らす物件探しを始めました。

 

折しも

私の住まいの近隣に新築物件が

いくつか出始めたのです。

 

まだ父の生前に、また一緒に暮らそうか・・・

そんな事を時折父と話しながら、

便利で住みやすい私の住む町に

両親と愛犬と共に

暮らせる物件を求めましたが

当時は全くと言っていいほど無く、

ようやく出て来るのは

最寄り駅から遠くアクセスも悪いのに高額!

 

タイミングってあるんですね。

 

今回 物件探しを始めてからは、

次々と出て来る物件にあおられる感じで

資料請求したり、

説明会やモデルルーム見学に行ったり・・・

 

母はそんな物件探しが楽しいらしく、

嬉しそうに 一緒に説明会に

参加してくれていました。

 

そんな生き生きとした母を見ると、

やっぱり  お父さんの事がショックで

一時的に少しおかしかったんだ。

そう納得してしまっていました。

 

いよいよ、一つの新築マンション物件に決め、

そこからは部屋タイプと価格、階数、

部屋の位置、抽選倍率など

詳細を詰めて行く段階に入って行きます。

 

でも、資金繰りのための銀行との交渉や

実家の処分について

現実的に考えなければならなくなると、

あれほど楽しそうに新しい住まい探しに

前向きだった母の様子が一変したのです。

 

「この家も築40年を超えてるから、

片付けて少しでも綺麗にして.

売却しやすいように整えないとね。」

と言うと、

 

「そんな事、

急に言われても片付けられないわよ。

だいたい、勝手にアナタが新しいマンションなんか買う事決めて!

私はOKした覚えはないからね!」

 

あんまりである・・・

 

もちろん

先ず母の意志を尊重し、

地方に暮らす兄にも相談して、

最終的に決めた事だったから。

 

「ねぇ、お母さん

新しいマンションに住み替えるってどう思う?

そうなると実家も出ることになるから

処分を考えることになるけど、どうかな?」

と聞くと、

 

「ここは車じゃないと買い物も不便だし、

私ももう車の運転出来ないし・・・

新しい所へ行きたい。」

と応えた母。

 

対向車との接触事故を起こして以来、

運転を止めた母としては

もっともな気持ちと言えるでしょう。

 

それが何故か

母にとっては 聞いていないし、知らない事

になっているのです。

 

こんな ちぐはぐな事が起きても まだなお、

母の認知症が進行しているとは

気付けなかったのです。

 

 

 

 

 

 

5年間の介護記録〜認知症の進行

2013年5月

 

父亡き後も実家で独り暮らす母の状態は日に日に悪化して行く。

 

それでもまだ、今はまだ精神的に不安定だからだ、認知症ではない。

そんな風に考えていた、いえ、そう考えようとしていました。

 

会社員としてフルタイムで仕事をしながら 父の墓所探し、納骨や法事、遺品整理、相続その他 やる事は次から次へとのし掛かって来る中では、母の認知症の進行にまで注力する余裕が無かったとも言えます。

 

同時に母と共に暮らす事を視野に実家に戻るのか、私の住まいに迎入れるのか、検討を始めましたが、持ち物が多く捨てられない母と住むには、私の住まいは狭すぎました。

 

ゴミ屋敷のようになっていた実家で唯一片付いていた亡き父の部屋もまた母により荒れて行くばかりで、これ以上実家で暮らす事もまた難しくなっていたのです。

 

そして母が言うのです。

「お父さんが帰って来たよ。

咳払いもするし、足音も聞こえたよ。」

 

家に帰りたくても帰れなかった父の魂が名残惜しくて戻って来ているのかも知れない とも思えたが、母がそういう意味で言ったのか 真面目にそう思い込んでいるのかわかりませんでした。

 

母に、頼むから家を片付けてくれ、私も手伝うからと言うと

「何勝手な事言ってるの!ここは私とお父さんの家で、あなたに関係無いでしょう!」

「もう、うるさい!口出ししないで‼︎」

 

私もまた

「じゃあ、もう知らないから!

何もかも自分で独りでやって!」

 

そう捨て台詞を言い、夜遅くに実家を飛び出す。

何でこんな事になるのか・・・

自宅への帰り道、涙が後から後から溢れて止まりませんでした。

 

しかし、

正に母のこの言動こそ、認知症の進行に他ならなかったのです。

 

 

 

5年間の介護記録〜父の死、悲しみと苦悩

2013年4月

 

最愛の父が亡くなった。

 

仕事から駆けつけるも父の最期を看取る事は出来ませんでした。

いえ、本当のところは危篤状態である事をどうしても信じられず、また信じたくなくて、駆けつけたと言うよりは普通に病院へ向かったのだ。

精神的にも、駆けつけるだけのゆとりすら無かったと言える。

 

担当医によると最後まで母の事、私の事、愛犬の事を心配し、今はまだ死ねないと、自分でも呼吸回復を頑張っていたそうです。

いかにも父らしい・・・

そんな父が大好きでした。

 

母は・・・

泣きはらした目に まだ涙を一杯ためて、

「どうしよう・・・お父さんが死んじゃった。」

ただただ、そう言って泣いていました。

 

職場や兄に連絡をしていると、亡骸を整える事や退院手続き、搬送先、葬儀社など矢継ぎ早に看護師さんから確認されるが、本当に近い身内の死は初めての事でもあり、またショックで頭が混乱して何も考えられない。

全てを病院と葬儀社に委ねた。

正直、母も私もそれが精一杯だった。

 

母は元々、掃除や片付けが苦手な人で、更に父の入院に取り紛れて実家は惨憺たる状態となっていました。

唯一、整然としていたのは2階の父の部屋と父が入院ギリギリまで丹精を込めていた庭だった。

 

葬儀社の方によると2階への階段が直線ではなく屈折している為、亡骸を上げることは不可能との事。

しかしながらゴミ屋敷と化していた1階に安置できるスペースは無い。

 

急ぎ私の住まいへの搬送を確認しましたが、既に遅い時間になっていたため管理会社とエレベーターのサイズの確認が取れず、泣く泣く葬儀社の安置所にお願いする事となりました。

 

大好きな、大切な父を、まだ寒く暗い安置所に連れて行かなければならない!

父はきっと自分が建てた、住み慣れた我家に帰りたかったに違いないのに。

そして私もまた、父との本当に最後の夜を実家で一緒に過ごしたかったのに。

そう思うと、ゴミ屋敷にしてしまった母を呪わずにはいられませんでした。

 

翌日には地方に住む兄夫婦と交わり、葬儀の日程や段取りを進めて行きました。

 

思えば 葬儀迄の間も、その後も、母が少しおかしかったのを様々な忙しさと、また母もショックだったろうから仕方ない事と済ませてしまいましたが、認知症の兆候は至るところに現れ始めていたのです。

 

 

5年間の介護記録〜母の異変

2013年3月

 

それは本当に突然突き付けられた事実でした。

 

入院した父を見舞った帰り、母の運転がおかしい。

右に 右に寄って走行する。

センターライン寄り、つまり対向車線に寄って行ってしまう。

「お母さん、危ない!もっと左に寄せて!」

「どうして⁈ そんな事したら左の電信柱や人にぶつかってしまうじゃないの!変な事言わないで‼︎」

この時点で運転を代われば良かった・・・

でも、右に寄り過ぎている事を認めようとしない母に運転を代らせる事は難しかったのです。

そしてとうとう、対向車のサイドミラーと接触

「バーン‼︎‼︎」

やっぱり、やってしまった!

そう思い「だから言ったのに!対向車にぶつかっちゃったじゃない!」

 

ぶつかった対向車の、いえ正しくは ぶつかられた被害者である対向車のドライバーさんは中年男性。

「何だよ!こっちに寄って来るから変だなと思って避けていたのに、更に寄って来て!

何考えてるんだよ‼︎」

 

あまりに最もな言い分にこちらは何も言えない。

どうやら先方のサイドミラーが破損したようです。

こちらは右のドアに少しの傷。

 

ひたすら同じ言葉を繰り返し謝る母。

「かえって私が出ない方がいいかもしれない・・・」

そう直感し助手席に身を沈め息を潜めていると

「全く仕様がないなぁ!

アナタもう運転しちゃダメだ!

ハァ、もういいよ!」

 

恐らく母の異常を察し、これ以上話しても無駄だと思われたのでしょう。

悪い人じゃなくて良かった!

いや、むしろ本当に申し訳ない!そして人に危害が及ばなくて良かった。

 

しょんぼりと何も言わなくなった母に代わり私の運転で帰宅。

 

これが、母の認知症が紛れもなく顕在化した最初の出来事だったのです。