5年間の介護記録〜父の死、悲しみと苦悩
2013年4月
最愛の父が亡くなった。
仕事から駆けつけるも父の最期を看取る事は出来ませんでした。
いえ、本当のところは危篤状態である事をどうしても信じられず、また信じたくなくて、駆けつけたと言うよりは普通に病院へ向かったのだ。
精神的にも、駆けつけるだけのゆとりすら無かったと言える。
担当医によると最後まで母の事、私の事、愛犬の事を心配し、今はまだ死ねないと、自分でも呼吸回復を頑張っていたそうです。
いかにも父らしい・・・
そんな父が大好きでした。
母は・・・
泣きはらした目に まだ涙を一杯ためて、
「どうしよう・・・お父さんが死んじゃった。」
ただただ、そう言って泣いていました。
職場や兄に連絡をしていると、亡骸を整える事や退院手続き、搬送先、葬儀社など矢継ぎ早に看護師さんから確認されるが、本当に近い身内の死は初めての事でもあり、またショックで頭が混乱して何も考えられない。
全てを病院と葬儀社に委ねた。
正直、母も私もそれが精一杯だった。
母は元々、掃除や片付けが苦手な人で、更に父の入院に取り紛れて実家は惨憺たる状態となっていました。
唯一、整然としていたのは2階の父の部屋と父が入院ギリギリまで丹精を込めていた庭だった。
葬儀社の方によると2階への階段が直線ではなく屈折している為、亡骸を上げることは不可能との事。
しかしながらゴミ屋敷と化していた1階に安置できるスペースは無い。
急ぎ私の住まいへの搬送を確認しましたが、既に遅い時間になっていたため管理会社とエレベーターのサイズの確認が取れず、泣く泣く葬儀社の安置所にお願いする事となりました。
大好きな、大切な父を、まだ寒く暗い安置所に連れて行かなければならない!
父はきっと自分が建てた、住み慣れた我家に帰りたかったに違いないのに。
そして私もまた、父との本当に最後の夜を実家で一緒に過ごしたかったのに。
そう思うと、ゴミ屋敷にしてしまった母を呪わずにはいられませんでした。
翌日には地方に住む兄夫婦と交わり、葬儀の日程や段取りを進めて行きました。
思えば 葬儀迄の間も、その後も、母が少しおかしかったのを様々な忙しさと、また母もショックだったろうから仕方ない事と済ませてしまいましたが、認知症の兆候は至るところに現れ始めていたのです。